Essay

[Version 1]

本日2023年11月1日、新会社 [REISAN] を設立。登記はアムステルダムの商工会議所にて、オランダ人の個人会社として始める事に。昨年の末までやっていた [Sakura Music & Art] は抹消。元よりオランダ在住の日本人として始めたこの会社には、あまり愛着が湧きませんでした。はっきり言うと、オランダ長期滞在ビザ取得を主たる目的として開いたものでありました。オランダにはアーチストビザがない為、会社を設立するしかなかったのです。その時、何人かの友人の勧めもあり、如何にも日本的な名前「サクラミュージック、、」を名乗ったのですが、自分にはどうにもしっくり来ず、とうとう最後まで好きになれませんでした。

オランダに住んで早20年と少し。来た当初はそれまで居たフランスのビザを維持していました。事実、その頃、毎月1週間はまだパリに居ましたし、アパートも維持してありました。それも時間と共に必要性を感じなくなったと言うより、オランダに正式に移る決心をしました。自分にはオランダがより合っている!と思ったからです。友人に恵まれた事も、大きな理由でした。初めの1年と9ヶ月はアインどホーベンに住み、その後首都のアムステルダムに移りました。数年後、現在の夫と出会い、結婚。これによりオランダに帰化を決意、オランダ国籍に変更。もはや日本人としての会社は必要なくなってしまいました。

「サクラミュージック、、」を閉めた時から、時間をおいて次の会社を始める意志を持ってはいましたが、新会社を立ち上げるタイミングを見つけるのにいささか迷いが、、。そんな最中、九月半ば、バカンスから帰って来た時、一気にモチベーションが上がり、新会社の準備に取り掛かりました。基本、音楽家である私がやる業務はそんなに変わるわけがありません。しかし新しい社名をどうするか?これは誰しも思案するものですが、それも自然に [REISAN] (レイさん)と言う名前が浮かびました。オランダ発音では「ライザン」となります。何んだか格闘技団体の名前のようですが、何より今度の名前は自分にシックリ来るんです。これが如何に重要な事であるかは説明するまでもありません。実は日本人が私を呼ぶ時、だいたい皆「レイさん」と言います。この名前に違和感がないのも当然なはず!と言えるでしょう。

[REISAN] において、今までと同じく音楽プロデュースをやるのは言うまでもないのですが、更に今回は、著作権ビジネスを中心とした、出版業務も掲げています。加えて音楽だけではなく、執筆物の出版、販売も視野に入れています。総合的には [Rei Satoshi] の音楽活動、アーチスト活動のマネージメント、そのファイナンシャルの管理を目的としてもいます。以前の「サクラミュージック、、」のような”文化交流”と”教育”という部分に関しては重きを置いていません。しかしあくまでインターナショナルなスタンスは維持して行きます。そんな風に会社を運営して行きたいと思う所存であります。まずは新しい決意と共に、御挨拶まで。今後とも [REISAN] を宜しくお願いします。

(01−11−2023)

[Version 2]

昨日書いていて、初めて既にオランダ在住20年を過ぎていたのを発見。”光陰矢の如し!”で過ぎてみればあっという間でした。その前にフランスに約3年住んでいて、欧州滞在も足掛け23年以上になります。当初は3年間パリで外国経験を積み、日本に帰国するつもりで、ましてやオランダに住むという考えなど、毛頭なかったのです。しかしやはり人との出会いが、人生を変えました。パリで友人の結婚式に行き、その時のパーテイーで私が演奏したのをきっかけに、一人のオランダ人に出会い、その人は大変な音楽好きで、次の日から毎日メールのやり取りが始まったのです。やがて彼は私に一人のミュージシャンを紹介したいと言い、ある日その人物を連れて、私のパリのアパートにやって来ました。その人物がDonnie Duvallというアメリカ人。彼とはあっという間に意気投合、以来私は毎月オランダに演奏に通うようになったのです。。

2003年の9月20日頃にアインドホーベンで生活を始めましたが、まだ住所はパリにありました。フランスとオランダは同じEUの国で、地続きですから、行き来にはまったく問題なく、当時は諸々の規制がまだなかったので、私は日本のパスポートで早速銀行口座を開けました。もちろんオランダの住所が必要でしたが、友人の住所を借りたのです。今では考えられない話です。もちろんアインドホーベンに来たのは、音楽をする為。まずはDonnieを通してオランダのミュージシャン世界に入って行ったのです。住処はAd van Meurs という地元で有力なシンガーソングライターあり、オルガナイザーの事務所。そこには外国からも多くのミュージシャンが訪ねて来、私は彼らと知り合いになれ、数人とは一緒に演奏もしました。

何より感動的だったのは、それまでの人生であり得なかったほど、多くの友人があっという間に出来た事。Donnieを通してGeertという、独自のライフスタイルを持ち、かつインターナショナルな感覚を持つ、やはり地元で有名な人物に出会えたのも大きな理由に違いありません。Geertを通してもまた、多くのミュージシャンと出会え、あっという間に私はアインドホーベンで知られる存在になったのです。ロクにツテもなく、散々出会いに苦労したパリとは雲泥の差であった!と言うしかありません。自分で思うに、何故かオランダに来てから、肩を張らずに自然体で居られるようになった事。自然に心から笑う事ができ、自分でも自分自身の変化に驚いていました。ただオランダに住みだす時、娘は日本に帰国してしまい、寂しい思いをしましたが、当時7才になるかどうかの彼女にとって、普段私がいない生活は、私よりはるかに困難だったはずです。

オランダに移る時、私は1年だけ行って、自分を試したい!と言いました。家族の為には、日本に帰国すべきだと考えていました。にもかかわらず、オランダでの生活が楽しくて仕方なく、もう1年、滞在期間を延長したのです。そして最後の3ヶ月。偶然アムステルダムに住む日本人から、留守の間、3ヶ月間アパートを借りないか?と提案を受けました。これはまさに運命の時!人生の大きなターニングポイントだったのです。アムステルダムに引っ越す前、私は多方の物を処分するか、或いは日本に送っていました。最後に3ヶ月間、アムステルダムで遊んでやれ!と勝手な事を考えたわけです。それがミイラ取りがミイラになった理由で、たった3ヶ月で私はもうアムステルダムから出られなくなってしまい、現在に至るわけです。

人生、一寸先は闇、かくも計り難し哉!!

(02−11−2023)

[Version 3]

実は会社を始めるのは4回目なんです。最初は日本に居た時。当時しょっちゅう一緒に仕事していた、レコード会社のデイレクターが独立する際、私に一緒に会社の設立を誘ったのです。この会社も音楽制作会社でした。日本で言う”有限会社”でしたが、出資金は100万円。最終的にもう一人仕事仲間が参加し、出資金は分け合って出し、私は30万円出しましたが、役職にはつきませんでした。その会社は約5年間存在したのですが、最後に社長が大きなビジネスに失敗、借金を背負い、会社は存続できなくなりました。そのビジネスに私は関わっていなかったので、私は自分が籍を置く会社を失っただけで、実質的な被害は被りませんでした。

その会社を閉めた後、個人事務所を始めましたが、会社登記はしていません。日本に居た時は、ミュージックビジネスの真ん中に居たので、ほどほどに仕事はもらえていました。当時、既に定期的に入る著作権収入があったので、それで何とか生活していたのです。しかし私は請け負い仕事に疲れていました。特にその頃、金銭トラブルに遭ったのも大きな理由。そんな最中、仕事仲間のプロデユーサーから私のソロアルバム(CD)を作らないか?と打診を受け、私は作り貯めてあった曲を録音、発売する事にしました。制作段階から、何となく私は欧州をターゲットに考えていました。その頃欧州には、なんの宛もなかったにも関わらずです。

それが予期せぬ事に、初めてパリに行った時、師匠の友人を訪ねた時、その人が日本でも有名な仏人作曲家、ポールモーリアをよく知っていて、私を彼に引き合わせました。私は彼の目の前で演奏し、CDを渡したところ、彼はすぐにCDを聞き出し、ほぼ全曲聴いてくれた後、大きな評価を私に与えました。日本に帰った後、その事は聞き出した師匠は、それならフランスに行くべきだ!と言いました。それを聞いた時、私は思わず身震い!既に結婚して子供までいる。外国でちゃんと生活していけるだろうか?当然考えました。同時に私の身体は火照りが収まらず、ものの15分ほどで決心は固まったのです。それはまさしく運命でした。

フランスに住んだ2年半、オランダに住み出してからの数年、地味にアーチスト活動をしていました。その後公式にオランダに移住。それに先駆けて始めたのが”サクラミュージック&アート”です。まだ日本のパスポートであった私は、無条件にオランダで会社を開けはしません。やはり何らかの意味が必要でした。何故日本人がわざわざオランダに来て会社をやるのか?この条件を満たす為に、文化交流を掲げたのでした。その後実際、数人のオランダ人音楽家を日本に紹介、或いは欧州で演奏活動をしたい日本人音楽家をコーデイネートしたりしました。当時は日本、オランダ双方、まだ文化交流基金みたいなものがあったので、今よりずっと仕事が楽でした。

しかし福島での地震災害の後、日本は経済的に衰退し出し、以前のような元気を失いました。オランダも同様で、物価は上がれど、給料はろくに上がらない時代に突入。自動的に芸術家の活動を支援する予算は、原則、削られてしまいました。ただ私は元からコーデイネート業が専門ではありませんから、特に時代の流れには逆らいませんでした。それでも会社を維持しつつ、2016年3月には、これまたよく一緒に仕事をしていたシンガーソングライターと音楽プロデュース会社を起こし、3年間活動を画策するも成功には至らず、見事に消滅。その後、商工会議所から実態のない会社!と認定され、会社登録を抹消されました。やはり仕事仲間との共同経営は、実に難しいものです。もう2度と共同経営はやらないでしょう。個人会社の方がよっぽど楽!と言えます。

(08−11−2023)

[Version 4]

先週の土曜日、アムステルダムの老舗のブルースクラブ”マルメロ”で、私のバンド”NO SMOKE”のライブをやりました。この日はベーシストのフランクリンの、なんと75才の誕生日。その事も多いに関係し、最初から最後まで多くの人で賑わいました。マルメロの常連客、フランクリンの家族、初めて来た若者達、等々。フランクリンの家族が演奏前にバースデーケーキを用意し、準備万端!いつものように私達は夜10時半過ぎにから、夜中2時半まで、休憩を挟みつつ、都合3セット演奏したのです。補足しておくと、バンドのメンバーは、ケビン(ヴォーカル、ギター)レイ(私、ギター、コーラス)フランクリン(ベース、コーラス)ジョニー(ドラムス、コーラス)の4人。2016年9月から活動を開始、オフィシャルには2018年8月からNO SMOKEと命名。そして2019年の3月以来、現在のメンバーで固定され、現在に至っています。

私達は自分達のオリジナル曲を演奏する事にこだわっています。最近どこに行っても、既成の曲をコピーして演奏するカバーバンドやトリビュートバンドだらけ。私達は若い頃からずっと自分で曲を作り、演奏して来ました。自作の曲を録音し、その曲を売ってこそプロ!と今でも疑いません。ヴォーカルのケビンは若い頃、欧州で人気のあったバンドの出身。フランクリンは60年代の終わりから70年代の初めにかけて、オランダのバンドとして有名だったバンドの出身。二人とも輝かしい前歴を持っています。ドラムのジョニーは若い頃から、プロのバンドで演奏して来ていて、地元アムステルダムでは良く知らる存在。かくいう私は日本時代のキャリアこそ立派にあるものの、なかんずく外国人。自分で言うのもなんですが、10年前、突然アムステルダムのロックポップシーンに現れた新星みたいなものだったのです。

ケビン、フランクリンとは初代ドラマーである、ヨハンのスタジオで開かれるジャムセッションで出会ったのです。初めて会った時から、すぐにお互いに注目し合い、毎週一緒に演奏するようになりました。当時の私はまだ何人かのシンガーソングライターと頻繁に演奏していましたし、彼らもまたそれぞれの活動を持っていて、まだバンド形態にはなっていません。しかしすぐに様々な形で一緒にライブ演奏もするようになり、時が熟した時、自然とバンドになって行ったわけです。ヨハンは偉大なドラマーでしたが、年齢から長時間の演奏が困難になり、他のドラマーに席を譲りました。しかし私は新しいドラマーに納得できず、ほどなく現在のジョニーに新しいドラマーになってくれるよう打診したのです。結果それが功を奏したわけです。

世の中がコロナ禍に苛まれるまで、私達は毎月17−18日間、一緒に演奏しました。その時期に今のバンドスタイル、音楽的スタイルが構築されたわけです。その頃の私達は、土曜日に演奏したマルメロが本拠地のようで、毎週2〜3日はそこで演奏していました。当時は他にもレギュラーで演奏する場所を8箇所は持っていて、週末は必ずそのいずれかで演奏するのに勤しんでいました。残念ながら、それらのほとんどが、近隣からの音に対する苦情で、ライブ音楽を辞めざるを得ませんでした。以前のアムステルダムでは考えられない事ですが、時代がかわった!と言うしかなかったのです。そんな中、コロナによりロックダウンが始まり、私達だけでなく、全てのバンド、音楽家は、なかなか演奏活動ができない!と言う、冬の時代を迎えたのでした。

皮肉にもライブ演奏がろくに出来ない状況下、私達はファーストアルバムの録音に入りました。十分に経験のある私達は、順調に録音作業を進め、初のアルバム”NO SMOKE ーno mirrors”を完成させたのです。さあこれから!と言う時、更にコロナ禍は続き、私達はリーリスを1年待たねばなりませんでした。その後世の中がほぼ正常に戻った頃、ようやくアルバムを公表できたのです。それから少しして、現在のマネージャーであるデユコと出会い、現在に至るわけです。正直我々はシニアバンドですが、いずれも長年のキャリアを持つ腕利きのミュージシャン。実はほとんどリハーサルをやらないにも関わらず、私達は今なおステージでは、いつも力強いアンサンブルを演奏できるのです。少なくとも身体が動く限り、私達はNO SMOKEとして演奏を続ける事でしょう。

(16−11−2023)

[Version 5]

11月20日はやはり人生において、意味のある日と言うしかありません。今からちょうど5年前の今日、私は現在の夫のアンドリュースと正式に籍を入れました。通常それは如何なる国においても、”結婚”を意味しますよね。オランダは独特な法律を設定していて(1)法的同居人 (2)法的パートナー(3)法的結婚 と3段階の設定が選べるようになっています。私達は二番目の法的パートナーを選んだわけですが、現在多くのカップルが、この方法を”結婚”として洗濯しているのです。事実、法的結婚と諸処の権利は何も変わりません。昨今、旧態已然のキルスト教をベースにした、婚姻形態を望まない人が増え、より現実的な婚姻方法と言えるでしょう。

私は一度結婚に失敗、離婚しているので、もういわゆる”結婚”など”もういいや!”といった感じでした。世の中には2度も3度も、知り合いに5回も結婚した人が居ますが、私に言わせれは”よくやるよ!”です。アンドリュースとは、いわゆるカップルになって早10年半、同棲しだして8年、、。もちろん簡単に結婚に至ったわけではなく、紆余曲折もありました。ただ結果的に、順調に段階を踏んだかのようにも見えることでしょう。実は私達は全く異なる性格と思考回路を持っているのですが、それがかえって功を奏する事も多々あり、まさしくプラスとマイナスでありながら、夫婦としてはこれも悪くないかも?とお互いに思っています。

結婚後2年と少し、コロナ禍に世界は見舞われ、誰しもが忍耐を強いられました。その時期、日常二人揃って家で仕事をするようになり、毎日朝から夜まで一緒に過ごさねばなりませんでした。私達が好きだったカフェにも行く事が出来ず、毎週末、私は独自のおつまみを作り、いつも二人で家飲みでした。当然ながら時々小さな口論はありましたが、不思議な事にこれだけ一緒にいても、私達は特に問題を覚えなかったのです。以前からバカンスで喧嘩したことはありませんし、私達は不思議と無理なく一緒に居られ、生活できるのです。一緒に同じ屋根の下で生活するのですから、これはとても重要なことに違いありません。”縁”があったのは確かでしょう。

私にとって意外だったのは、彼が私の娘の碧に対して、とてもよくしてくれることです。碧は2016年の9月からオランダの大学で勉強していましたが、二人は2014年の2月、すでに合っていました。ですから碧がオランダに住みだした頃は、もうなんとなく”擬似家庭”のようでした。結婚暦もなく、子供など考えた事もないアンドリュースも、”義理の父”であるのを楽しんでいるかのよう。そんなアンドリュースを碧も信頼し、問題が起こると、彼に相談するようになりました。卒業前、コロナの時期、碧はロックダウンで、インターンシップも中断、学校も閉まってしまい、その為に卒業が2ヶ月遅れになり、大きく難儀していた時、これまたアンドリュースが助けてくれました。特に学校に対して碧の保証人になってくれ、流石はネイテイブなオランダ人!学校側の審査は一発で通ったのです。当時の私はまだ日本人だったので、私の力ではこんなに簡単には行かなかったはず。我々親子は、全くを持って彼には感謝!でした。こうして碧を多いに助けてくれた事も、私が彼をより信用、信頼するようになった理由です。

何より結婚は私にオランダ国籍取得の機会を与えました。以前から国籍取得を考えていましたが、通常日本人が日本国籍を手放すことはしません。しかし私にとっては、仕事も含め、私の人生において、いくつかの点でオランダ国籍取得にメリットがありました。その為にオランダ語の勉強もし、国の定める語学試験にも合格していました。よって籍を入れると同時に、国籍変更を申請する権利が得られたのです。元々私にとって”国籍”はあくまで法的事項!と捉えています。一つの国に囚われるつもりはありませんし、もっと言えば、自分は”地球人!”と考えています。実際、国籍取得は私の普段の生活により利便性を与えました。そしてアンドリュースにとっても、同じ国籍である方が、便利で一体感もあるようですし、私は”全ては運命である!”と思います。

(20−11−2023)

[Version 6]

新会社”REISAN”を始めて早1ヶ月になります。商工会議所での登記は先月既に完了していて、それを元に行うウェブショップの設定変更、駐車場の名義変更が未だに完了しません。たった名前を変更するだけの事に、どうしてこうも時間がかかるのでしょう?もちろん私の下手ななオランダ語も関係していないとは言えませんが、何より最近のシステムに問題があると言わざるを得ません。私のコンピューター処理能力も時代に取り残されつつあります。書類やウェブサイトにある”コンタクト”に問い合わせても、いつもまずはコンピュターによる対応、時にはロボット相手、メールも直接問い合わせたいセクションに簡単には到達できません。何故こうも不便に最近なってしまったのでしょうか?一昔前のように、直接電話で話すか?或いは窓口に出向いて質問できた時代の方が、よっぽど利便性があったと言えます。結果より多くの煩わしさに追われています。

まずウェブサイト上のウェブショップですが、この支払いシステムを”Mollie”という会社を通してやっています。このMollieがWorld Pressとの連携により、ウェブショップが開設されています。以前のサクラミュージックの時も、このし払いシステムの構築には苦労しました。まずは会社の認証から始まり、これには商工会議所での登録ナンバー(KvK nnumber)、会社名義の銀行口座番号、納税ナンバー(BTW number)が必要です。当然それらの事項、全部持っているのですが、全ての手続きはウェブサイトを通してしか出来ません。その上、要求される全ての条項を記入し、送った後、今度は認証されるまで5日間(5 working day) 待たされるのです。もし何かの不備があれば、再度同じ事の繰り返し。これだけの作業でで2週間はゆうに費やしてしまいます。

Mollieのウェブサイト上のアイコンが全てグリーンに灯ったら、ようやく手続き完了になるのです。私はサクラミュージックの口座を閉めてしまっていたので、新たにREISANの口座を開かねばなりませんでした。これにもまず商工会議所での登録証明(諸々の番号)が必要でした。つまりはこの証明なしには、ウェブショップを開くことはできません。おまけに売買に於けるカード決済であるSum-upについてもMollieと全く同じ作業をしなければなりませんでした。おまけにサクラミュージック時代の若干の収入がまだMollie内の私の口座に残っていたのですが、現在会社の銀行口座の名前、番号が異なってしまった為、引き落とすことができません。自分のお金が引き出せない!というのに納得がいきませんが、この問題解決に未だ格闘している始末です。直接電話では問い合わせ出来ないようになっていて、メールのやり取りを数回やっていますが、どう解決すればいいのか?まだ方策が見つかりません。直接担当と話が出来たら、どれだけ簡単な事か、、、。

駐車場の名義変更に至っては、公務員の愚かな対応に、開いた口が塞がりません。これにも商工会議所の登録照明が必要でしたが、私はそれを持って、わざわざ区役所の窓口に行ったのです。そこで渡された書類に記入し、これで完了です!と言われ、2週間以内に証明をメールで送ります!と言われたにも関わらず、一切送られて来ません。何か手違いがあった事は明白で、書類に書いてあった問い合わせ電話番号にかけて見ました。するといつものようにコンピューター音声の対応で、長々と1時間以上待たされた挙句、ようやく担当に繋がった!ところ、その担当は自宅でのリモートワーク。子供が騒ぐ声が聞こえ、よく聞き取れない。最終的にこの人物は何も事を処理する権限がなく、オフィスの実際の担当にメールで質問するようサジェストされました。メールを送ったところ、今度はこの部署ではなく、別の部署に再度メールで問い合わせるように言われ、ついにうまくいったと思っていました。ところが役所の日ずけでは10日前に何故か今度は封筒で書類が送られて来て、まだ不備があると伝えて来ました。いったいどういう仕事を彼らはしているのでしょう?おまけに郵便物は会社の住所ではなく、自宅に送られるように設定しているにも関わらず、どうして会社に送られたのでしょうか?もっときちんと働いてもらわないと困ります!

たらい廻しは勘弁してください!!

(30−11−2023)